東京?パリパラリンピックの競泳女子平泳ぎ100m(SB8)で2大会連続出場した大阪体育大学水上競技部女子の宇津木美都選手(現大学院博士前期課程1年)。5位入賞したパリ大会を、スポーツ科学部コーチ教育コース発行のコーチング研究誌「櫂(かい)」で振り返っています。

宇津木美都さん
4年間の集大成、パリパラリンピック
大阪体育大学水上競技部女子?宇津木美都(現大学院博士前期課程1年)
2024年8月29日から9月7日の10日間、パリでのパラリンピックで水泳競技が行われた。私はこの試合を大学生活4年間の集大成として置いた。大学1年のとき、東京パラリンピックに初出場し、「次のパリでは必ずメダルを取る」と3年間競技に専念してきた。大学2?3年で2度の世界選手権とアジア大会を経験し、多くのことを学んだ。
今回は、2024年3月に行われたパリパラリンピックの日本代表を決める代表選考会からパリパラリンピック本番までの5か月間の私の軌跡について綴ろうと思う。私の大学3年までの軌跡については「櫂」の第23号、第25号に記載しているため、それらと一緒に見ていただきたい。
1,代表選考会
パリパラリンピックの日本代表内定条件は、日本パラ水泳連盟が定めた派遣標準タイムを代表選考会での1レースで突破することである。派遣標準タイムはAとBの2つがあり、それぞれ基準は以下の表1のとおりである。
私はパリパラリンピックでのメダル獲得を目標としていたため、代表選考会では派遣基準Aタイムを突破することを目標としていた。私がメインとしている100m平泳ぎの派遣標準Aタイムは1分25秒55、派遣標準Bタイムは1分27秒84であり、私のベストタイムは代表選考会前時点では1分26秒06だった。派遣標準Aタイムを突破するには自身のベストタイムを約0秒5更新する必要があった。
しかし、私にとってベストタイムの更新は大きな壁だった。スランプを経験し、どれだけ練習しても中学3年の時に出したベストタイムを今まで超えることはできなかった。私にとってベストタイムとは、自分を長年苦しめてきたものであり、幻や奇跡に近いものだった。「ベストタイムを更新するだけでなく、約0秒5速く泳がなければいけない」、「代表選考会という大きな舞台において1発で決め切らなければいけない」そんなプレッシャーの中、毎日練習に励んだ。プレッシャーでメンタルが不安定になり練習に集中できないことや、思うように睡眠がとれず体調を崩すこともあった。それでも、代表選考会でベストタイムを出すことはあきらめなかった。私は1月から平泳ぎのフォームを変え、上半身と下半身の連動性を高めた。今まで下半身に頼り切っていた泳ぎから、その下半身に上半身をつなげることでより推進力を得られる泳ぎに改善した。この泳ぎの習得に2か月を費やした。
代表選考会前に行われた大学での試合(25mプール)において、平泳ぎでベストを更新することができた。この試合が大きな自信となった。「ここまでしてきたことは間違っていなかった、代表選考会でベストタイムを更新できる可能性がある」と思えるきっかけとなった。
代表選考会本番、緊張はしていたが「必ずベストが出る」という自信に満ち溢れていた。代表選考会前にベストが出ていること、改善した泳ぎが自分の身になり練習が積めていることが大きな自信の理由となった。1発本番のこのレースに今までのすべてをかけて、練習通り思いのままに泳いだ。結果は1分25秒23だった。派遣標準Aタイムを突破し、ベストタイムを更新することができた。苦しみ続けた7年間、何をしても届かなかったベストタイムを更新することができた喜びで涙があふれた。何度もやめようと思っていた水泳競技、しかしいつか幸せが待っていると信じ競技を続けてきた。もしあきらめてしまっていたら、この日の喜びはなかっただろう。「水泳競技をしていてよかった」「水泳競技の楽しさはこれだった」と心から思えた瞬間だった。また、ベストタイムを更新したことへの喜びはもう1つあった。それは、多くの人が一緒に喜んでくれたことである。家族はもちろん、部活の先輩後輩、監督、友達、パラ水泳の仲間、コーチ、今までかかわってきたたくさんの方に祝っていただき、こんなに多くの人に支えられていたのだと感謝で胸がいっぱいになった。特に両親が喜んでいる姿は印象的だった。これまで競技に対して褒められたことはほとんどなく、ブランクのときは「ベスト出ないってことは練習してない証拠や」「水泳向いてへんからやめてまえ」と何十回言われてきた。そんな両親が心から喜んでいる姿を見られたこと、「おめでとう、やるやん」と言ってもらえたことが何よりうれしかった。
多くの人の支えがなければ今回のベストは出なかっただろう。競技をやっている中でもらった「がんばれ」をこの試合ですべて力に変えて発揮することができたと感じる。水泳は個人競技であるが、1人では上に上り詰めることができない競技であると感じた。
2,4月からパリに向けて
代表選考会が終わり、4月から再スタートを切った。パリに向けての目標は「平泳ぎで表彰台」である。表彰台に乗るためにはもう一段階タイムを上げる必要があった。パリパラリンピックまでに出場する試合で0.01でもタイムを更新し、自信をもって本番に挑めるように新しい泳ぎの習得に励んだ。新しい泳ぎとは、推進力のあるプルを泳ぎに加える泳ぎである。今まではキックに力を入れキックの推進力を邪魔しないプルを目指していた。しかし、キックだけでは限界があり、プルをくわえることでより多くの推進力を得られると考えた。その泳ぎを習得するためには、上半身のパワーだけでなく、推進効率の高いプルの技術、プルとキックを連動させるための体幹が必要になった。主観的な感覚と客観的な視点から一番進む技術を身に付け、練習前のドライトレーニングでは体幹周りを中心に重点的に行った。
3,ケガと向き合う
トレーニングは順調だった。調子もキープされ、他の種目でもベストタイムを大幅に更新したり、練習ベストが出たりするようになっていた。しかし4月中旬、突然歩けないほどの左かかとの痛みにおそわれた。三角骨障害と言われるけがだった。三角骨とは、足首の距骨の後ろにある過剰骨で、三角骨障害は、足関節後方インピンジメント症候群の一種で、足首を伸ばした際に三角骨が脛骨と踵骨の間に挟まれることで痛みを引き起こすことである。足首周りが炎症を起こし、歩くことも泳ぐことも困難になった。陸トレもできないことが多く生活の何もかもを制限された。調子が良かったからこそトレーニングが積めないことが何より悔しく、止まっている時間なんてないと焦る気持ちもあった。水中に入れたのは発症して2週間後だった。しかし水中に入れてもキックを使うこと、壁を蹴ることは禁止でちゃんとトレーニングが積めるわけではなかった。ターゲットにしていた試合の棄権も余儀なくされ、今まで積み重ねてきたものが1からになるのではないかという不安があった。私はとにかく今できることをやるしかないと、この期間を逆にチャンスだと捉えるようにした。キックが使えないからこそ、プルのパワー?技術の向上に力を注いだ。プルに全意識を集中させ楽に速く進む形を追求した。気づけばプルだけで進んでいる感覚が嬉しくなり、より細かいところまで追求することがたのしくなっていた。最初に感じていた不安はなくなり、この期間が重要な時間だったと今でも感じる。
キックが使えるようになったのはそこからまた3週間たった時だった。痛みと向き合いつつキックの感覚を取り戻していき、そのキックをプルと合わせていった。6月中旬ごろにはほとんど痛みはなくなり、ちゃんとしたトレーニングに戻ることができた。プルの技術を極めたこと、体幹トレーニングを怠らなかったことが、けがによる調子のダメージを少なくすることができたのだと思う。けがの中、出た試合でも大幅にタイムを落とすことはなく、安定して高いレベルのタイムを重ねることができていた。
7月に入り、パリ大会前最後の試合に向けて強化練習を積んでいた。自分のしたい泳ぎができるようになり、練習ベストも上がっていた。しかし7月中旬ごろの練習中、左の内転筋を痛めた。痛い中でも練習を繰り返してしまったため、より悪化させてしまった。またプルだけの練習に戻り、「どれだけ怪我すれば気が済むんだ」と心から思った。しかしそこまでの焦りはなかった。4月のけがのおかげで「とにかく今できることを真剣にやること」の重要性を知り、冷静に対処することができた。「起こったことを悔しがっても無駄な時間を過ごすだけ、それなら一歩でも進むために有効的に時間を使おう。」と思いながら練習に励んだ。1週間半でけがは治り練習に戻ったものの、試合は思うような結果ではなかった。しかし、私の心はまっすぐパリを見据えていた。
4月からパリに出発する8月までの期間、今までの競技人生の中で一番多くのけがを経験した。しかし、心折れることなく進み続けることができたのは、自分の状態と練習にまっすぐ向き合えていたこと、練習を積む中で自分の成長を実感できていたこと、何より競技に真剣になることが成果につながると選考会で知ることができたことが大きな支えになったからだろう。
4,私のパリパラリンピック
選考会からここまで、順調とは言えないが自分のできることはすべてやってきた。フランスには1か月前に入り、コーチとマンツーマンで練習を行った。最初はなかなか実感がわかず、ただただ自分の調子が上がっていくことに楽しさを感じていた。近づくにつれチームの雰囲気も高まっていき、選手1人1人から伝わる「やる気」が自分を鼓舞させた。しかしなぜか過度な緊張はなく、レース本番に向けてどんどん落ち着いていっているように感じた。この5か月間強くなるためにしてきた行動が大きな自信につながっていたのだと思う。
メインである100m平泳ぎは競技2日目の8月29日に行われた。午前中に予選が行われ、午後に決勝が行われる。会場には両親を含め、多くの方が応援に来てくださっていた。しかし、その時の私にほかの人のことを考える頭はなかった。それは緊張で視野が狭くなっているのではなく、自身に集中しきっていたからである。飛び込みからタッチまで、この会場でどんな泳ぎをするのか、どんなレース展開をするのか、それしか考えていなかった。予選前、緊張はなくとにかく楽しみだった。調子から予選は軽く通過できるだろうと考えていた。私の目標はあくまで「メダル獲得」であり、予選通過に関しては重たく考えていなかった。結果1分28秒15で8位だった。思ったより遅いタイムで驚いた。泳いでいた感覚的にもメンタル的にも悪いところはなかったのだが、緊張感がなかったことが逆に悪い結果を招いてしまったのだと思った。今からレースをするという気持ちになかなかなれず、練習で100mを泳ぐくらいの気分だった。今まで大きな試合で一切緊張をしないということがなかったため、「緊張しなさすぎ」もよくないのだと初めて知った。決勝に向けて、予選での反省点をコーチと話し合った。そこから出た反省点を基に決勝前のアップを行った。アップではよりレースを意識し、同じ感覚で本番に泳げるように染み込ませた。「あとはもうやるだけだ」とコーチと満足のいくところまで調整をおこなった。このチャンスをものにするのは自分だけだと心に決めてレースに向かった。結果1分26秒48で5位だった。目標としたメダルには届かなかった。ベストを出していればメダルに届いていた。正直ベストが出るレベルの調子だったし、ベストを出すための努力をしてきた。満足のいくようなタイムではなく、悔しさの残る結果となった。
パリパラリンピックに出場して、とにかく楽しい試合だったと思った。結果は思うようなものにはならなかったが、本番に向けて頑張ってきた期間や有観客の試合に出場できたことがたのしい思い出になった。また、コロナ禍での東京大会とは違い、チームで一緒に応援したり、レースの感想を言い合ったり、チーム間の中を大いに深めることができたのも楽しかったといえる1つの理由である。成果として、予選から決勝のタイムを大きく上げられたことは1番の収穫となった。国内の試合では2レース行うものが少なく、予選からどのように決勝にもっていくのがベストなのかを考える機会も少ないが、今回の大会で修正する点を2,3 点にまとめて、そこだけに集中して改善していくことが大切なのだと知った。コーチと相談しながら改善することで、主観と客観とどちらの視点からも泳ぎを見ることができるので、1人で考えず誰かに頼ることも大切なのだと知った。私の中でコーチの存在はこの試合でとても大きなものだった。
5,まとめ
私は大阪体育大学での4年間で多くのことを学ぶことができ、多くの成果を得ることができた。
大きな学びとして2つある。1つ目は、1人では成長することができないことである。競泳は個人競技であり、練習するときもレースをするときも基本的には自分との戦いである。特に私は、大学の部活で普段から練習しているため、競う相手がいない。さらに、同じ練習メニューではついていけないこともあり、自身で何を目的とするのかを考えて練習に取り組まなければいけない。しかし、部活で練習していなければ、競泳に前向きに取り組むことは難しかったと思う。部員のがんばっている姿やベストが出て喜んでいる姿をみて、自分もまけていられないと火がついたり、大事な試合の前に部員の全員から応援メッセージをもらえて、さらに頑張ろうと思えたり、部員はとても大きな力になっていた。また、私のためにたくさんの時間を割いてくださったコーチや、泳ぎの改善に協力してくださった方々、今までかかわってきたすべての人が私の競技生活の中で大切な存在だった。これらの人たちの力がなければ、私は上に上り詰めることはできなかったと心から思う。
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